東京地裁平成30年5月22日判決(判例タイムズ1469号202頁)

原告が解雇を回避するために退職合意をしたとは認め難く、退職合意の動機が表示された事実もないことから、退職合意について原告に錯誤があったとは認められないと判示した事例(確定)


【事案の概要】

(1)被告は、貸事務所及び貸会議室の経営等を目的とした株式会社であり、英国を本拠地として世界各国でレンタルオフィス事業を展開するYグループの日本法人である。
   原告(昭和50年生)は、平成27年6月2日、被告との間で、試用期間を6か月とする期間の定めのない雇用契約(以下「本件雇用契約」という。)を締結したうえ、同年7月1日よりジェネラルマネージャー(以下「GM」という。)として被告に入社し、名古屋市内のMセンターを拠点とする営業職として稼働を開始した。
   甲リージョナルディレクター(以下「甲RD」という。)は、原告の上司であり、東京を拠点として、原告を含む営業職に対する広範な人事権を有していた。

(2)平成27年9月の原告の営業成績は、①(レンタル)オフィス案件(以下「RO案件」という。)1件・2席、②ビジネスワールドカード案件(以下「BW案件」)0件、③ヴァーチャルオフィス案件(以下「VO案件」)0件であった。
   甲RDは、名古屋での勤務経験があったことから、同年10月ころ、原告に対し、社会保険労務士のAを紹介し、営業活動をしてみるよう助言した。原告は、フェイスブックのメッセージ機能を利用して、Aに対し、甲RDから紹介を受けたことなどを記載した挨拶のメッセージを送信したところ、Aから、よろしくお願いしますとの返信があった。原告は、これから相談したいことがあるのでよろしく御願いしますと返信したが、未読のままで反応がなかったため、Aに対し、それ以上の連絡を取ることはしなかった。

(3)平成27年10月の原告の営業成績は、①RO案件1件・2席、②BW案件1件、VO案件0件であり、同年11月の原告の営業成績は、①RO案件1件・1席、②BW案件1件、VO案件1件であった。
   甲RDは、同年11月30日の段階で、営業成績が上記の水準では本採用することは難しいと判断し、原告に対し、1回目のPIP(Performance Improvement Plan、業績向上計画)を記載した討論議事録(以下「第1PIP」という。)を交付した。第1PIPにおいては、RO案件を12月中に5件・10席成約することなどが目標とされた。

(4)平成27年12月の原告の営業成績は、①RO案件4、5件程度・7~10席程度、②BW案件2件、VO案件2件と、第1PIPにおいて設定した目標に近い営業成績を収めた。
   しかし、甲RDは、同年9月から11月までの原告の成績が不十分であったことも踏まえると、同年12月の成績だけでは原告を本採用することはできないと判断し、同月28日、原告に対し、第2PIPを交付するとともに、本件雇用契約上の試用期間(同月31日まで)を6か月延長する旨を通知した。第2PIPにおいては、RO案件を毎月及び3か月平均で5件・12席、BW案件を毎月2件、VO案件を毎月3件成約することなどが目標とされた。

(5)平成28年1月の原告の営業成績は、成約なしであった。
   甲RDは、上記の営業成績や上記(2)のような営業活動の内容等を総合的に判断し、原告に対して退職勧奨を行なうことを決めた。
   甲RDは、同月27日、電話会議で原告と面談(以下「本件面談」という。)を行い、第2PIPにおける目標不達を指摘して退職を促したが、退職合意を提出しなければ解雇する旨の発言はしなかった。
   その後、原告は、被告に対し、退職届(以下「本件退職届」という。)、退職時秘密保持誓約書及び退職時返却アイテムリスト(これらの3種類の書類を併せて、以下、「本件退職届等」という。)に記入及び署名したうえで提出した。なお、本件退職届には、同年2月9日を退職日とすること、退職の理由を会社都合とすること、離職票の交付を希望することなどの記載がある。

(6)原告は、平成28年2月9日、被告に対し、同年1月29日付け退職合意書(以下「本件退職合意書」という。)に署名押印したうえで郵送するとともに、その画像をメールで送信した。なお、本件退職合意書には、①原告と被告は、本件雇用契約を同年2月9日限り合意解約すること(以下「退職合意条項」という。)、②雇用保険用の離職証明書には、離職理由として、「4事業主からの働きかけによるもの(3)希望退職の募集又は退職勧奨[2]その他(事業主の勧奨による退職)」と記載されること(以下「会社都合退職条項」という。)、③被告は、原告に対し、退職合意金として月次基本給の1か月分を支払うこと(以下「退職合意金条項」という。)、④原告は、本件退職合意締結以前の事由に基づき今後一切の異義申立て又は請求等の手続(あっせん申立て、仲裁申立て、調停・訴訟手続等の一切)の行為を行なわないことを確約することなどの記載がある。

(7)被告は、原告に対し、会社都合退職条項に従って離職証明書を発行し、平成28年2月25日には、同月9日までの未払賃金及び退職合意金条項に基づく退職合意金を支払った。

(8)原告は、平成28年10月12日、本件訴えを提起した。


【争点】

(1)本件訴えの適法性(争点1)
(2)本件退職合意に係る錯誤無効の成否(争点2)
(3)未払賃金請求及び損害賠償請求の可否(争点3)
   以下、裁判所の判断の概要を示す。


【裁判所の判断】

(1)争点1(本件訴えの適法性)について
   本件訴えについて、不起訴合意の効力が及ぶとはいえないのであって、本件訴えは適法である(注:詳細については、省略する。)。

(2)争点2(本件退職合意に係る錯誤無効の成否)について
 ア 原告は、
  ①営業成績の不振を理由に原告を解雇することにつき、客観的に合理的な理由は存在しなかったこと
  ②第1PIP及び第2PIPは、目標達成を解除条件とする(懲戒)解雇の意思表示と解されること
  ③本件面談において、原告が退職合意に応じることを解除条件とする解雇の意思表示がされたこと
  ④原告は、合意退職に応じなければ解雇されると誤信して、本件退職届等を提出し、
  ⑤精神的に追い詰められて適応障害を発症し、解雇された場合の再就職の困難さに対する恐怖から、本件退職合意書を送付したこと
  ⑥解雇を避けるという動機を被告は当然に認識していたから、その動機は黙示的に表示されていたといえることなどを指摘して、本件退職合意が動機の錯誤により無効であると主張する。
 イ しかしながら、原告は、複数の外資系企業等での勤務経験を経た即戦力として年俸600万円の待遇で中途採用された者であるところ、他のGMの営業成績も第1PIPや第2PIPの水準に達しない場合があったとしても、平成24年12月以外は被告から期待されていた営業成績をあげられていなかったことについては、原告自身も自覚していたところである(原告本人)し、甲RDから紹介を受けた社会保険労務士のAとの接触状況に照らし、原告の営業活動の内容(積極性等)を不十分とみなした甲RDの判断が不合理であったとはいえない。
 ウ また、第1PIP及び2PIPの記載をみても、6節において、「Termination of Employment」(雇用の終了)は選択されておらず、8節においても、設定された目標等との関係で改善が見られない限り、雇用が終了される可能性が記載されているにとどまり、これを条件付きの解雇の意思表示などと評価することは困難である(原告本人)。そうすると、第1PIP及び第2PIPは、被告が、営業成績が伸びない原告に対し、PIPという形で目標を伝えるとともに、これが達成されない場合には本採用されない可能性があることを伝達した書面に過ぎないものと認められる。
 エ 本件面談において、RDが、原告に対し、退職届を提出しなければ解雇するなどと発言した事実はなく、原告が、甲RDの発言が解雇の意思表示の趣旨であるかを確認した形跡も窺われないから、本件面談におけるRDの原告に対する発言をもって、条件付き解雇の意思表示と評価することは困難である。
 オ また、本件退職合意書には、本件退職合意金条項など原告に有利な条項も盛り込まれていたものであるし、有給休暇の取得に係る原告の要望を被告も受け入れ、退職日は平成28年2月9日とされたものである。
   しかも、本件面談から本件退職合意書の提出まで約2週間の期間があったところ、原告は、その間、被告に対し、本件退職合意について異義を述べたり、解雇の回避のために本件退職合意をする旨を伝達したりした事実も認められない(原告本人)。
 カ 以上によれば、原告が、解雇を回避するために本件退職合意をしたとは認め難く、被告に対し、本件退職合意の動機が解雇の回避にあることを表示した事実も存しないから、退職勧奨に応じることもやむを得ないと考えて本件退職合意をしたと認めるのが相当である。
   したがって、本件退職合意について原告に錯誤があったとは認められず、上記アの原告の主張は採用できない。

(3)争点3(未払賃金請求及び損害賠償請求の可否)について
 ア 上記(2)のとおり、本件退職合意につき原告に錯誤があったとは認められないから、本件退職合意に基づく退職日以降の賃金の支払を求める原告の未払賃金請求は理由がない。
 イ 被告の原告に対する解雇ないし退職勧奨が不法行為を構成するものとは認められず、原告の損害賠償請求は理由がない(注:詳細については、省略する。)。

(4)結論
   原告の請求はいずれも理由がない(請求棄却)。