東京地裁平成30年9月25日判決(労働判例1207号56頁)

国・茂原労基署長(株式会社A)事件(確定)


【事案の概要】

(1)株式会社A(以下「本件会社」という。)は、平成25年7月25日に設立された株式会社であり、和洋食レストラン「〇〇」(以下「本件店舗」という。)の経営等を業とする。
   亡B(以下「被災者」という。昭和34年〇月生まれ)は、平成25年9月26日、本件会社との間で、雇用契約(以下「本件雇用契約」という。)を締結し、店長として調理業務に従事していた者である。
   原告は、被災者の配偶者である。

(2)被災者の本件店舗における労働条件、賃金等は次のとおりであった。なお、本件雇用契約は、口頭でされており、雇用契約書は作成されていない。
 ア 所定労働時間
   午前10時30分から午後10時30分までの8時間(そのうち午後2時30分から午後5時までの2時間30分は休憩時間であり、午後3時から午後5時までは店舗自体を閉店した〔ただし、土日祭日を除く。〕。)
 イ 支給賃金
   本件会社は、被災者に対し、平成25年11月26日から平成26年2月25日の間、次の名目で月額31万4100円の賃金等を支払った。なお、超過手当と深夜業手当とを合わせて以下「本件固定残業代」という。
   基本給 15万5000円
   役職手当 5万円
   超過手当 10万円
   深夜業手当 5000円
   通勤手当 4100円

(3)被災者は、平成26年3月〇日午後11時50分頃、自宅で倒れ、病院へ救急搬送されたが、翌〇日午前1時4分に直接死因「不整脈」により死亡した。

(4)原告は、平成26年9月4日、茂原労働基準監督署長(以下「監督署長」という。)に対し、被災者は加重労働等により死亡したとして、労災保険法に基づく遺族補償年金及び葬祭料を請求した。

(5)監督署長は、平成28年7月8日付けで被災者の死亡が業務上の死亡であると認定して、原告に対し、同月15日付けで、遺族補償年金及び葬祭料のそれぞれにつき、給付基礎日額を1万0243円として算出した給付額を支給する旨の各処分をした。その後、監督署長は、上記の各支給処分を取り消した上で、改めて給付基礎日額を1万2166円として算出した給付額を支給する旨の各処分をした。

(6)原告は、前記(5)の各処分に関し、給付基礎日額の算定に誤りがある旨主張して、千葉県労働者災害補償保険審査官(以下「審査官」という。)に対して、審査請求をしたところ、審査官は、上記の各支給処分を取り消した。そこで、監督署長は、平成29年2月22日付けで、改めて給付基礎日額を1万3330円として算出した給付額を支給する旨の各処分(以下「本件各処分」という。)をした。
   なお、 監督署長は、本件各処分における平均賃金及び給付基礎日額の計算において、①本件固定残業代を通常の労働時間の賃金(労基法37条1項参照)として算入せず、さらに、②本件固定残業代を基礎賃金から除外した上で、本件算定期間中の労働時間が別紙1「労働時間一覧表」(略)の「原告」の「実労働時間数」欄記載のとおりであることを前提として算出された割増賃金を算入した。

(7)原告は、本件各処分について給付基礎日額の算定に誤りがある旨主張して、審査官に対して、審査請求をした。しかし、審査官は、平成29年5月26日付けで、同審査請求を棄却する旨決定した。
   原告は、平成29年6月17日、本件訴えを提起した。 


【争点】

(1)本件固定残業代を通常の労働時間の賃金として算入すること及び割増賃金の基礎賃金に算入することの可否について、それら算入の前提として本件固定残業代が本件雇用契約の内容となっているか否か(争点1)
(2)割増賃金の算定基礎である本件算定期間中の労働時間数(争点2)
   以下、争点(1)についての裁判所の判断の概要を示す。


   なお、裁判所は、争点(2)についても、「事案に鑑み」検討し、以下のとおり判示した。
   本件算定期間中の労働時間については、被告が主張するとおり、別紙1「労働時間一覧表」(略)の「被告」の「実労働時間数」欄記載のとおりに認定するのが相当である。そうすると、本件各処分において、被災者の上記労働時間数を前提として時間外労働等の割増賃金を計算し、これを平均賃金の算定基礎とし、給付基礎日額を算定した点に誤りはないこととなる。 


【裁判所の判断】

(1)判断枠組み
 ア 遺族補償給付及び葬祭料は、いずれも給付基礎日額を算定の基礎として支給額が決定されるところ、給付基礎日額は、労基法12条の平均賃金に相当する額とするとされ(労災保険法8条1項)、給付基礎日額の算定に当たっては、診断によって業務上の疾病の発生が確定した日等が労基法12条1項所定の算定事由発生日とされている(労災保険法8条1項)。そして、平均賃金は、算定事由発生日以前三か月間にその労働者に対し支払われた賃金の総額をその期間の総日数で除した金額であり(労基法12条1項)、賃金は、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対価として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう(同法11条)。
 イ そうすると、「その労働者に対し支払われた賃金の総額」とは、労基法の適用を前提として、現実に既に支払われている賃金だけではなく、実際には支払われていないものであっても、算定事由発生日において、労基法の適用上支払われるべき既に債権として確定している賃金債権をも含まれると解される。よって、時間外労働、休日労働又は深夜労働(以下「時間外労働等」という。)が行われている場合には、同法37条所定の割増賃金も平均賃金の算定基礎に含まれることとなる。
 ウ そして、同法37条が時間外労働等について割増賃金を支払うべきことを使用者に義務付けている趣旨は、使用者に割増賃金を支払わせることによって、時間外労働等を抑制し、もって労働時間に関する同法の機影を遵守させるとともに、労働者への補償を行おうとするものである。よって、割増賃金の算定方法が同条並びに政令及び厚生労働省令の関係規定(以下、これらの規定を「労基法37条等」という。)に具体的に定められているものの、同条は、労基法37条等に定められた方法により算定された額を下回らない額の割増賃金を支払うことを義務付けるにとどまるものと解され、労働者に支払われる基本給や諸手当にあらかじめ含めることにより割増賃金を支払うという方法自体が直ちに同条に反するものではない。そこで、使用者は、労働者に対し、雇用契約に基づき、時間外労働等に対する対価として定額の手当を支払うことにより、同条の割増賃金の全部又は一部を支払うこともできる。そして、雇用契約においてある手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものとされているか否かは、雇用契約に係る契約書等の記載内容のほか、具体的事案に応じ、使用者の労働者に対する当該手当や割増賃金に関する説明の内容労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの事情を考慮して判断すべきである(最高裁平成30年7月19日判決・日本ケミカル事件・労働判例1186号5頁等)。

(2)検討
 ア 本件雇用契約は、口頭でされたにすぎず、これを証する契約書は作成されていない。また、本件会社名義の就業規則及び賃金規程は、本件会社の設立日(平成25年7月25日)よりも前の平成22年11月1日にいずれも施行されているなどの問題があることから、その効力を認めることはできない。
   さらに、本件会社の実質的経営者であったC(以下「C社長」という。)が被災者に対して、本件雇用契約締結時において本件固定残業代と割増賃金の関係について説明したことも証拠上窺われない。
 イ 以上に対し、被告は、
  ・本件固定残業代(「超過手当」、「深夜残業手当」)の名称からすれば、社会通念上、超過手当が時間外労働に対する手当、深夜業手当が深夜労働に対する手当と認識するこができること
  ・賃金台帳及び給料明細書に基本給及び役職手当とは別に本件残業代が記載されていること
  ・本件会社は被災者に対して給料明細書を交付していること
  ・本件固定残業代が現に支払われていたこと
からすれば、本件会社及び被災者は、本件固定残業代が時間外労働等の対価として支払われていたことをそれぞれ認識していた旨主張する。
   しかし、被災者が、上記のとおり、雇用契約書も就業規則もなく、しかも、本件雇用契約締結時において、本件会社から本件固定塹壕代についての説明がなされたことは窺われない状況において、わずか4か月程度の給与明細書の交付と本件固定残業代の受領のみをもって、本件雇用契約の締結に当たり、本件固定残業代が時間外労働等に対する対価として支払われることについてその内容を理解した上で、応諾するに至ったことを推認することまではできず、その他これを認めるに足りる証拠はない。
 ウ また、被告は、超過手当10万円は約67時間の時間外労働に対する割増賃金に相当するところ、被災者と本件会社との間において、本件会社が被災者に対して前職の月給21万円(注:被告は、C社長が本件雇用契約の締結に先立って被災者の前職の給料を確認しており、基本給の金額について本件雇用契約(基本給と役職手当)と前職の雇用契約とでおおむね整合すると主張している。)の2倍以上にあたる月給約46万円を支払う旨の雇用契約が成立していたとは考えられないから、時間外労働の対価として本件固定残業代を支払う旨の合意があった旨主張する。
   しかし、具体の固定残業代について、それが雇用契約の内容となっていることが否定された以上は、使用者の雇用契約締結時に有していた意図等の如何にかかわらず、法律上通常の労働時間の賃金として組み入れざるを得ないのである。その意味で、本件固定残業代が通常の労働時間の賃金に組み入れられた場合の賃金水準の問題を指摘する被告の上記主張は失当であり、採用することができない。
 エ 本件雇用契約の契約当事者の合理的意思を推認するための基礎事情との観点からしても、被告は、上記のとおり、超過手当10万円は約67時間の時間外労働に対する割増賃金に相当することのほか、被災者の本件算定期間中の時間外労働時間数は約123時間ないし約141時間であることを主張する。しかし、その主張を前提としても、超過手当においてあらかじめ想定される時間外労働時間数(約67時間)と被災者の実際の時間外労働時間数(約123時間ないし約141時間)から窺われる勤務状況との間に約2倍もの大きな乖離が見られるところであり、この点はかえって本件雇用契約において本件固定残業代が時間外労働等に対する対価として支払われていないことを推認させるものである。
 オ 以上の事情を総合的に考慮すると、本件雇用契約において本件固定残業代が時間外労働等に対する対価として支払われているものとはされておらず、ひいては本件固定残業代が本件雇用契約の内容となってはいないこととなる。
 カ したがって、平均賃金の算定基礎においては、まず、本件固定残業代を通常の労働時間の賃金として算入し、さらに、本件固定残業代を基礎賃金に含めた上で算出した割増賃金をも算入することになる。しかるに、監督署長は、これらの算入処理をすることなく、平均賃金及び給付基礎日額を算出し、これを前提として本件各処分をしている。よって、本件各処分には、平均賃金、ひいては給付基礎日額の算定の誤りがあるから違法であって取消しを免れない。

(3)結論
   本件各処分をいずれも取り消す。


 

東京地裁平成29年8月25日判決(判例タイムズ1461号216頁)

原告と被告の労働契約において、出向手当が固定残業代の性質を有するというに足りる労働契約上の根拠があるということはできないと判示した事例(控訴審にて和解成立)


【事案の概要】

(1)被告は、IT(情報処理)人材育成・派遣事業等を目的とする株式会社である。被告の取締役は、代表取締役でもあるAのみである。Aとその妻で被告の「専務取締役総務部長」を称しているFは、ともに中国の国籍を有する。
   原告B、原告C,原告D,原告Eは、いずれも被告又はその関連会社に雇用されていた、中国の国籍を有するものである(なお、本稿では、原告Bの請求のみを対象とする。)。

(2)原告Bは、平成26年9月8日付け雇用契約書(甲21)を作成して、被告との間で、以下の内容の雇用契約を締結した。
 ア 雇用期間 平成26年9月5日から3年間
 イ 担当業務 被告指定のIT開発その他の業務
 ウ 勤務時間 就業規則に従う(3条)。「出向の場合、勤務時間・休日休暇・精算などの諸事項は現場の規定に従い、待機の場合、就業規則に従う(8万円+交通費)」(5条)。
 エ 賃金 「基本報酬:20万円/月平均。(内訳:基本給15万円/月、出向手当:3万円/月、基本賞与2万円※年2回支払、評定賞与込み)」、「交通費と残業代:就業規則に従い、精算とする。」(3条)
 オ 賃金の支払方法 月末日締め翌月末日払い(3条)
   そして、原告は、平成27年1月31日に退職するまで、IT技術者として、被告の指示で株式会社Gの事業場で、被告が請け負った業務に就労した。毎月の賃金は、実際には基本給15万5000円、出向手当3万5000円(計19万円)及び交通費が支給されていた。

(3)原告Bが平成26年11月から平成27年1月31日に被告を退社するまでの間、Gの事業場で就労した労働時間の状況は、別紙1-1「勤務時間・賃金計算票(原告B)」(略)のとおりである。
   そして、被告は、原告Bの平成27年1月の就労に基づく賃金19万円(基本給15万5000円、出向手当3万5000円)をその支払期日(同年2月末日)を経過したあとも支払っていない(ただし、その未払に正当な理由があるかどうか争いがある。)。

(4)被告の就業規則
 ア 本訴では、平成25年11月13日にそれぞれ適用が開始された、乙1の就業規則及び甲56の就業規則が証拠として提出されていた。ところが、被告は、平成27年6月の本訴提起から2年近くが経過し、弁論準備手続も既に終結した平成29年5月になって、乙12の就業規則を提出した。
 イ 乙12の就業規則には、適用開始日を示す附則はなく、「平成26年6月1日」という日付のみが記載されており、「就業規則の了承に関する従業員(代表)のサインリスト」「私どもが、会社の最新就業規則の内容について、会社の通知と説明を十分に受け、理解した上で了承しました。」との文章の下に、原告C,原告A、原告Bらの署名押印がある。書面が添付されている(以下、この書面を「サインリスト」という。)。
 ウ 乙12の就業規則の内容は、概ね甲56の就業規則と同様であり、出向手当は、「固定残業代として支給する」旨が定められている(なお、乙1の就業規則の出向手当に「28時間の固定残業時間が含まれる」という部分は、甲56の就業規則では、出向手当に「含まれる固定残業時間は給与明細等により個別に明示する」となっている。)。


【争点】

   本訴において、原告Bの請求に関する争点は、
(1)原告Bの割増賃金
 ア 出向手当の性質
 イ 所定労働時間の時間数
(2)原告Bの交通費
(3)原告Bの賃金と立替金との相殺
(4)原告Bの割増賃金に係る付加金
であるが、以下、(1)アのみについて、裁判所の判断の概要を示す。


   なお、上記の争点に関する被告の主張は、以下のとおりである。
 ア 被告は、乙12の就業規則において、「出向手当は、固定残業代として支給する」旨を定めており、毎月3万5000円の出向手当は残業代に充当されるべきものであるから、割増賃金の基礎賃金から除外されるとともに、割増賃金の弁済となる。そして、原告Bには、毎月3万5000円(約31時間分)の出向手当を超える法定時間外労働はなかった。
 イ 就業規則は、入社時に閲覧させて、その内容を説明し、社員から就業規則の内容について説明を受けた旨のサインリスト(乙12)に署名押印させ、さらに事業場に誰でも分かる形で備え置いている。


【裁判所の判断】

(1)出向手当が固定残業代の性質を有するためには、労働契約上の根拠が必要なこと
   被告は、出向手当は固定残業代であると主張するところ、このような手当が固定残業代であると認められるためには、労働契約において、出向手当が固定残業代であると定められていて、残業代ないし割増賃金の性質を有し、かつ、その他の賃金(通常の労働時間の賃金など)と明確に区別されていることで、固定残業代によらない労働契約、労働基準法37条等に基づく通常の計算方法による残業代ないし割増賃金の金額と比較することが可能であることを要すると解する。
   しかし、原告Bと被告との間で締結された雇用契約書(甲21)を合理的に解釈すれば、原告の賃金は所定労働時間内の勤務に対する賃金である「基本報酬」たる基本給及び出向手当に加え、残業代及び交通費で構成され、残業手当及び交通費は出向手当とは別に精算されることが定められていたというべきである。

(2)労働契約と就業規則の優劣
 ア これに対し、被告は、乙12の就業規則において、「出向手当は、固定残業代として支給する」旨が定められていると主張する。
   しかし、就業規則の内容が労働契約成立時から労働条件の内容となるためには、
  ①労働契約成立までの間に、その内容を労働者に説明し、その同意を得ることで就業規則の内容を労働契約の内容そのものとすること、
  ②労働契約を締結する際若しくはその以前に合理的な労働条件を定めた就業規則を周知していたこと(労働契約法7条)を要する。ただし、上記②の場合は労働契約で就業規則と異なる労働条件が合意されている部分は、就業規則の最低基準効(同法12条)に抵触しない限り、労働契約が優先する(同法7条但書)。
   そして、労働契約で用いられている用語につき、就業規則が一般に理解される意味とは異なる特別の意味で解釈することは、労働者と使用者の個別の合意による労働契約の内容を、使用者のみの制定による就業規則に基づいて変更し、就業規則を優先させることに等しく、使用者による労働者に対する労働条件の明示義務(労働基準法15条)及び理解促進の責務(労働契約法4条)並びに労使の対等な立場における合意原則(労働契約法1条、3条1項、8条、9条本文、労働基準法2条1項)の趣旨に反し、労働者に対し予測可能な労働条件を押し付ける不意打ちにもなりかねない。
   それゆえ、労働契約締結以前にその就業規則も示して、就業規則の内容が労働契約そのものとなり、労働契約の用語を就業規則での特別の意味で用いることが労働契約に取り込まれたといえる上記①の場合に当たらない限り、労働契約法7条但書の趣旨に従い、その労働契約はやはり一般に理解される意味で解釈されるべきである(就業規則の最低基準効に反する場合は除く。)。
   したがって、乙12の就業規則での「出向手当は、固定残業代として支給する」旨の定めが労働契約成立前から労働条件の内容となるためには、前記①の場合に該当すること、すなわち、就業規則の内容を原告Bに説明し、その同意を得ることで、就業規則の内容を原告Bと被告との間の労働契約書(甲21)と同様に、労働契約の内容そのものとすることを要することになる。
 イ この点、Aは、陳述書及びA尋問において、原告Bに対して、入社時に乙12の就業規則を読み聞かせて、出向手当は28時間分の残業代であることを説明した上、サインリスト上に原告Bの署名押印を得た、つまり前記アの①の場合に当たる旨を供述する。
   しかし、サインリストにおける署名押印の位置や署名押印用の欄の体裁(上の欄から各従業員が署名押印していったものと認められる。)から見て、原告Bは、原告Aの署名押印以後に署名押印したと認められる。
   そして、前記【事案の概要】(2)に加え、証拠(原告A等)及び弁論の全趣旨によれば、原告Bは、平成26年9月5日ころ来日し、同日から雇用期間が開始するものとして同月下旬に同月8日付けに遡って雇用契約書(甲21)を作成し、原告Aは、同年10月8日に来日して(つまり、その前にサインリストに原告Aが署名押印することは物理的に不可能である。)、同日から雇用期間を開始するものとして、同月9日付けで雇用契約書(甲12)を作成していることが認められる。
   それゆえ、原告Bは、平成26年9月5日の雇用開始から1か月以上、雇用契約書(甲21)の作成からでも8日以上、経過した後にサインリストに署名押印したことが推認され、Aの前記供述は採用できない。そのほかに、原告Bと被告の労働契約が入社時から乙12の就業規則の内容を含むと認めるに足りる的確な証拠はない。

(3)労働条件変更の要件
 ア いったん雇用契約書(甲12)の内容で労働契約が成立している以上、出向手当を固定残業代とすることは、従前、基本給及び出向手当から構成されていた所定労働時間の賃金を、基本給のみに切り下げる労働条件の不利益変更に当たる。  
 イ それゆえ、その賃金減額が有効となるためには、①原告Bの同意があり、かつ、その同意が原告Bの自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在すること(労働契約法8条、最高裁平成28年2月19日判決参照)、又は②従前の労働条件を変更する就業規則を労働者に周知し、かつ、その労働条件変更が合理的なものであること(同法10条)のいずれかを要する。
 ウ しかし、乙12の就業規則の内容に加え、不利益変更の内容、その理由等に関する適切な説明や協議がされて、原告Bが労働条件の不利益変更が生じることを正確に理解した上で、署名押印したことを示すなど、合理的な理由の客観的な存在を認めるに足りる的確な証拠はない。この点、サインリストには、「私どもが会社の最新就業規則の内容について、会社の通知と説明を受け、理解した上で了承しました。」との不動文字による記載があるが、これのみでは合理的な理由の客観的な存在を認めるには足りない。
   また、労働条件変更の合意理性を認めるに足りる主張立証もない。

(4)就業規則の周知
   なお、Aは、A尋問において、被告の就業規則を営業所に備えておいて、従業員にもそのことを知らせて閲覧に供していたとも供述する。
   しかし、閲覧に供していた状況を具体的に認めるに足りる的確な証拠はない。むしろ、前記【事案の概要】(4)のとおり、被告には、適用開始日が同じなのに内容が異なる甲56、乙1の各就業規則が同時に存在する、本件訴訟で就業規則を適時に書証として提出していないといった就業規則管理上の不備があったことが認められる。この点、乙12の就業規則には、原告A及び原告Bの署名押印があるサインリストが添付されている。しかし、「周知」とは、労働者が知ろうと思えばいつでも知ることができるようにしておくことをいうから、閲覧を1回許すのみでは周知とはいえない(労働基準法施行規則52条の2の周知方法でも「常時」という要素を明記している。)。
   したがって、被告が就業規則の内容を労働者がいつでも知ることができるように周知していたとは認めるに足りない。

(5)小括
   以上によれば、労働契約と就業規則の優劣、労働条件変更の要件、就業規則の周知、いずれの見地からも、原告Bと被告の労働契約において、出向手当が固定残業代の性質を有するというに足る労働契約上の根拠があるということはできない。